熱帯思案


 日の出の時刻にはすでに気温28度。そろそろ時計の長い針と短い針がぴたりと重なるだろうというこの時刻にはとうに35度を越えていた。
 殺人的な暑さというのはこういうものだろう。
 暑さによる身体のだるさ、息苦しさのため些か意識を飛ばしかけていた京一はそう思った。殺人的な暑さとは例え話的な言葉だが、ここ数週間の最高気温を並べてみるとシャレにならない。真夏日と呼ばれる日が続き、付近の奥様方の間では30度をやや越えた日であれば「今日は涼しいわね」などという台詞が飛び交う始末だった。
「ひーちゃん、クーラー買わねェ?」
 開け放たれた窓から入る日光を避けるように部屋の片隅に置かれた扇風機の前に座った京一はこの部屋の主にそう話し掛けた。
「お前なあ…」
 長めの前髪をうっとおしげにかき上げて龍麻は溜息をついた。そして責めるように背後にいる人物に言葉を放つ。
「高校生の一人暮らしにそんな余裕はねェんだよ。夏は扇風機、冬は電気炬燵。それさえありゃ十分だろ」
「ううっ。それもそうなんだけどよ…」
「うるさい、暑いのが嫌なら寝てろ」
「こんな暑くちゃ寝られねェよ」
 首ふり指定で風量は強。その扇風機の前に背中あわせで陣取った龍麻と京一は、先ほどからこのような会話を十数分おきに繰り返している。室内の温度計は40度近くを指している。そんな部屋ではもあっとした暑い空気をかき回し温風が扇風機の方から流れてくるといった状態なのではあるが、無風よりはまだマシということで朝から休みなくスイッチを入れている。首を振る扇風機にあわせて身を僅かに動かしながら、京一は再度口を開いた。
「う〜〜〜、暑ィ…」
 その京一の言葉は誰に言ったというものではなく自然に出たものであるが、暑さからくるイライラが頂点に達していた龍麻は頭の隅でブチッとなにかが切れる音が聞こえた気がした。
「そーかそーか。それなら暑くて寝れない京一クンが寝られるよう優しいオレが協力してあげよう」
 内心の切れ具合はおくびにも出さない優しげな微笑を浮かべて、龍麻は背後の京一を振り返った。
「へ…?」
 その龍麻の笑顔に免疫のある京一は咄嗟に殺気(?)を感じ取り身を引く。龍麻が一歩にじり寄れば京一が一歩後ずさる。そんな終わりのなさそうなやりとりに焦れたのか、龍麻は笑顔の仮面は崩さぬまま京一に言った。
「なんで逃げるのかな…?」
「いや、逃げてるわけではねェけど…よ」
「そっか。じゃあ京一クンが早く眠れるように」
「ぎゃあ!」
 くらえっ!というなんだか物騒な掛け声を掛けて圧し掛かってきた龍麻に、京一は色気のない悲鳴を上げる(男に色気があってたまるか:京一談)。完全に馬乗りになった龍麻は素早く京一のシャツの裾をたくし上げ、地かに汗ばむ肌に触れた。
「なにすんだよ、ひーちゃん!」
「なにって…ナニ。ほら、運動すれば京一も疲れてぐっすりお昼寝できるだろ?協力してやるよ」
 楽しそうに鼻歌交じりで自分の身体を弄ってくる龍麻に、京一は暑さからではない汗を滝のように流した。
 いや、龍麻とのセックスは嫌いではない。自分が受け入れ役というのは少々気にかかるところであったが龍麻が相手ならばいいと感じていたし、なにより気持ちいいのでもう最近は問題にもしなくなっている。
 しかし今の状況でいえば別問題であった。こんな鬼のように暑い部屋であんな行為を強いられたらいくら体力自慢の自分であれど死んでしまう。
 先ほどまでのダレた頭はどこへやら、一瞬のうちにフル稼働を始めた頭で必死に龍麻に縋る思いで言い寄った。
「待て、オレが悪かった!ワガママはもう言わねェ。だから落ち着け、ひーちゃん!」
 しかし切実な京一の願いは目の前の天使の笑顔を持った悪魔の一声で闇に葬り去られた。
「ダメ。オレ、その気になっちまった。ほれ見ろよ。もうビンビン♪」
 嬉しそうにそう言いながら龍麻はすでに形を変えた己自身に京一の手を添えさせぎゅっと握りこませた。
「な。そういうわけで、いただかせていただきます」
 押さえ込まれた京一の脳裏に浮かんだ言葉は、自業自得か後悔先に立たずか。
 どちらにせよ京一の「クーラーが欲しい」という台詞はこのひと夏の間、もう聞かれることはなかった。